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エンジェル・ハウリング その2

前回取り上げたエンジェル・ハウリングシリーズを読み終えました。
結局9巻と10巻はブックオフほかの古書店では見つけることができず、
図書館から借りてきて読みました。
区外の住民にも貸してくれる文京区の図書館は偉いです。

感想ですが、早く続きを読みたくなる的な意味では面白かったです。
続巻探すためにあちこち古書店を駆け回りましたしね。
ただ終わり方は残念というか、フリウ達がたどりついた結論には賛成できないかな。。。
以下ネタバレ注意。


この物語では「疑うこと/信じること」が大きなテーマの一つなのですが、
人間に対する懐疑と人間でないものに対する懐疑を一緒にしちゃうのってどうなのという感じです。
5巻で入院中のミズーに、やはり入院中のベスポルトが語るシーンがあります。

「賢くなるとは、見るものを疑うことから始まる。鳥は飛ぶ。考えぬ者は、鳥が鳥であるというだけでそれが飛ぶということを認める。鳥が飛ぶ理由を求めるためには、根拠なくば鳥は空を飛べないというところから始まらなければならない。賢者はそうして疑うことを覚える万象に確証を求める。証拠がなければなにも信じることのできない賢者が、こうして生まれる。証拠にもまた証拠を求める。その輪廻……結果として、真の賢者はなにも信じることができない」

「愚者とは、すべてを盲信する。賢者とは、すべてを疑う。この両者にどれほどの違いがある?なにも疑うことのない愚者と、なにも信じることのない賢者。結果においてはなにも変わりはしないのだ」


ダウト、ですよね。ベスポルトが言うのは賢者のやり方ではありません。
真の賢者はどうするのか。ここは「疑うこと」の大家であるデイヴィッド・ヒューム大先生に聞いてみましょう。

賢者はそれゆえ、彼の信仰を証拠に比例させる。不可謬的経験に基づいているような結論においては、彼は最高度の確信度をもってその出来事を期待し、自分の過去の経験をその出来事が未来にも存在するであろうことへの十分な証明と見なす。その他の場合においては、彼はもっと用心深く処理する。彼は相対立する体験を計量する。彼はどちらの側が、より多数の体験によって支持されているかを考察し、その側へと疑いと躊躇を持ちながらも傾いていく。そしてついに彼が自己の判断を決定するときも、証拠がわれわれが固有の意味で蓋然性(「確率」)と呼ぶものを超えることはない。

――デイヴィッド・ヒューム『人間知性研究』斉藤繁雄・一ノ瀬正樹訳


そして、完全な信仰が得られなかったとしても、すべてを信じる愚者とは結果が全然違ってくるわけです。
地図の空白を埋めていっても隙間をなくすことはできないし、怪物を滅ぼすこともできないかもしれない。
しかし地図を埋めていくことによって、たとえば新たな資源を見つけられるかもしれないし、
国土の防衛計画も改良することができるでしょう。
「確かなものなどない」とわかっていても、「より確か」を求めることで人類は進歩してきたのです。

もちろん、人間に対しては同じスタンスで「より確か」を追求してもうまくいかないはずで、
作中でもアイネストやメルソティがそれやって破綻してますよね。
でもそれは「確かなものなんて、この世界にはない」から、では決してないわけで。
だから、エピローグでこういう結論にまとまってしまうのは残念に思いました。

「そんなこと言ってても仕方ないやぁな。人生ってのは、疑うより先に必要なことが山ほどある」


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